人が死ぬ、というのは、何も物理的生物学的死に留まらないのではないかと、最近考える。
創作では人が死ぬということはそれだけでドラマで、軽々しく扱ってはならないとよく言われる。
実際にはテレビを見れば毎日のように事件があるし、本の中にも漫画の中にも死は溢れている。
仕事で向上心のない者は生きている死者だとする中国古典書を読んだことがある。
そんなプラスの意味ではないけれど、「忘れる」ということは、その人の中で自分の存在は死んだと同じなのではないかと考える。
自分は確かに生きているのに、その人の中では存在しなくなっている。
それが意識的なものではないから、余計に寂しい。
例えば仲違いをした相手のことを忘れる、なら、分かる。ろくに連絡を取っていないような相手なら分かる。
でもそれが、血の繋がった相手だと思うと。不可抗力だと思うと。その人の中からも大切だったはずの記憶がどんどん零れ落ちていっているのだと思うと。
今日分かっても、明日わからなくなっているかもしれない。
肉体の死だけが死ではなく、存在の死というものもあるのかもしれないと、考えたりします。
たまにね。

今日のご飯は中華丼、卵と豆腐のスープ。