日曜は図書館に行きました。日曜が予約取り置き期限の本があったので、それとあわせて10冊借りてきました。家に帰ってさあ読もう、と思ったら。何か話が繋がらないんです。粗筋を読んだ時は、今回はこういう話なのか、と思っただけだったんですが。よくよく既刊一覧見たら。「予約する本間違えたあああ!!(シリーズの2作目を借りたかったのに3作目を予約して借りてきてしまった)」急いでパソコンを立ち上げて、2作目の予約をしようと思ったら。貸出しカードが見当たらないんです。………ない。
どうやら、閉館間際で焦って図書館内に忘れてきたようです。会いたくない人に会って気が動転してたのもあったしなあ。明後日にでも確認してみよう(泣)死活問題。
というわけで、フェンネル大陸偽王伝はお預け、と相成りまして、「平井骸惚此中ニ有リ」其参を読みました。骸惚先生の字、もう間違えません。澄夫人恰好宜しくて素敵。
いろいろ取り留めなく考えてしまったので、ちょっと抜き書いてみたり。本当はこんな風に抜き出すとちゃんと小説での意図が伝わるか分からないのだけれど。

「自分にしか理解できないことをしているのに、それを他人に理解してもらおうなどと言うのは図々しいってものだよ。自分のために自分に向けて小説を書いているんだ。それを理解してもらおう、評価してもらおうなどというのは愚の骨頂だ。文学が作者以外の人間に理解できないのは当然の話なんだ。理解できた一部の読者が特別なのであって、理解できない作品を書く作者が異常なのじゃあないんだよ」
「それが芸術の本質だ。少なくとも、その一部ではある。だが、理解できる人間が高尚なのである、というのは正しくない。理解できる人間とできない人間との間に《区別》はあっても《優劣》はないのだからね。逆に、そういった作品に対して、思想がどうの、技術的にどうのと、おためごかしに批評を加えるのもまた、馬鹿馬鹿しいことだと思うがね」
「作品の批評を否定するつもりはないんだ。それはそれで充分に価値がある。ただ、残念なことに文学作品に対する批評というのは《作品》に対する評であって、それは作者以外の人間にこそ価値があるものだと思うんだ。なにせ、文学作家には、芸を高めるという行為――すなわち、作品を書くという行為それ自体が重要なのであって、出来上がった作品に対して、さまざまな論評をされたところで、さして価値のあるものではなくなってしまうのだからね。尤も、その批評の内容が作家自身にとって重要な意味を持つこともあるだろうから、一概にどうだとは断言できないがね」

泉鏡花の名前がこの部分の前にちらっと出ていることもあったからかな。
自分は、あくまで作品内の出来事のみを対象とする作品論にももちろん一目おきますが、どちらかというと作家論的見方をしてしまうし、作家論のほうが好きです。その理由はおそらく、中高生時代にはまっていたラノベ作家さんが舞台裏をそっくりさらけだす人だったため、精神状態と作品はリンクするんだという思い込み、インプリンティングがされているせいだとも思うのですが。
現在でも、HPを持っていらっしゃったりで日常が垣間見える作家の作品は、どちらかというと作家論的見方(作者の状態・変遷をたどり作品とリンクさせる)をします。
が、そんなにプライヴェートを知らない作家の作品は、無意識の内に作品内部の鑑賞で完結しがちです。多分、よしあしは別として、その方法を大学のゼミで鍛えられたからです。
作品一冊について鑑賞するなら、作品論はありだと思います。ですが同じ作家の作品幾つかを平行して扱う時、その二冊(あるいはそれ以上)を結ぶ共通点が作家しかない以上、作家論になってしまうのは当たり前ではないか?と。なぜなら、そこに変化を認めその原因を探る作業になるからです。
Aの時点ではBと書いたテーマを、Cの時点ではDと表現する。同じテーマに沿っていたとしても、その変化の原因はやはり作家の内部に求めるしかないのでは、と思うのです。自分自身は作家ではないので予測に過ぎませんが、変化もなしにどうやって作品を書き続けられるのか?と思うのです。それこそ、単なる技術向上、芸の向上。
勿論芸の向上を認めないわけではありません。茶道を習っていた時、型にはめていくことの意味が分からず、「型をものにした後、初めて個性が出てくるんですか?」というようなニュアンスのことを先生に聞いた覚えがあります。先生は「やればやるほど、まだまだ型どおりに出来ていないことが分かってくる。一番綺麗なのが基本の型であり、そこを目指していくものだ。どうしても個性は出てしまうが、そのくせをなくしていくのが練習だ」と仰いました。個性重視の教育の中で(たぶん)育ち、何でも己の価値観でしか計れなかった自分が恥ずかしかった記憶があります。
話が横道に逸れましたが。自分の目指すものを追い求めて表現を向上していく。その過程を純粋に追うならば、作品論に終始することは可能なのでしょう。ただ、その過程には、作家の精神状態が反映されていると見るのはやはり牽強付会でしょうか。たとえ批評に対して何も感じずすごしたとしても、作者本人が一人の人間として生き、社会生活を営む以上、人との出会いや別れ、感銘を受けたもの、あるいは沈み込むような嫌な経験、そういったものが作品に凝縮され変化となって現れるのではないかと思うのです。
ただ、ラノベなんかのシリーズものになってくるとまた違うだろうな、とかも思います。一つの物語がシリーズ通して成立している場合、物語の流れがまず第一に来るだろうから。
と、いうわけで。
なんかほんとに取り留めなくなってきましたが、まとめたら私は作家論の方が性にあっているな、というだけです。
大学で散々作家論を否定された印象を持ってるもので……いや気のせいかもなんだけど。作品だけを気にするなら何で芥川の生涯を学ぶ授業があるんだよ!!と今更ながら思ったり。
まだまだ自分なんかには分かってないことがたくさんあるのかもですが。
最後に、骸惚先生の格好良いセリフ。ラノベにも当てはまると思いました。

「しかし、探偵小説というものはそうじゃあない」「探偵小説は読者を楽しませるため、喜ばせるために存在している。一般に受け入れられたものが低俗だと罵られるのが文学だというのなら、文学と探偵小説は根本的に別のものなんだ。一般大衆のために存在してこその探偵小説だろう」

酔ってるからなー。やっぱ文章むちゃくちゃ。気が向いたら校正するか消そう…。あ、勿論、上に挙げた骸惚先生の意見(作者の意見?)には賛成です。別にそれをけなしたり批判したいわけではない。批判に見えたら作者の方にすみません、だなあ。
あ、電撃文庫が女の子向けレーベル立ち上げるそうですよ。もうとっくにご存知かな…>もし読んでいらっしゃったら。日本一?忙しい書店でがんばっている友人サマへ私信